15. 初期科学運用開始

(国立天文台ニュース 2011年8月号掲載)

初期観測開始
2001年 4月に東京で開催されたACC会議 (ALMA Coordination Committee) において 日米欧三者で “世界で唯一の究極の望遠鏡”を建設しようという合意が取り交わされてから ほぼ10年が経ち、“ALMA初期科学運用開始!”と宣言できるところまで 辿り着くことができました。

2011年7月28日、標高5000mの山頂施設に並ぶ総アンテナ数が16台に達しました。アルマ望遠鏡は最終的に66台のアンテナを結合して使いますが、その4分の1にあたる16台という数字は、アルマが初期科学運用を行うのに必要なアンテナ数です。完成時のアルマの性能がきわめて高いことは言うまでもありませんが、完成前のある段階ですでに世界最高の性能に達することになります。世界最高性能の望遠鏡に匹敵する目安とされたのが、アンテナ数16台なのです。アルマ望遠鏡は完成に向けた試験観測が行われていますが、それだけではなく並行して科学観測を行うのが初期科学運用の段階です。科学的成果を生み出すべく、いよいよ究極の電波望遠鏡アルマが動き出します。

三者アルマ決議:日米欧三者で合意に署名(当時の代表者達:左から、ロバート・アイゼンステイン(Robert Eisenstein)(NSF数学物理部門 副議長)、キャスリーン・セラルスキー(Cetherine Cesarsky)(ESO台長)、海部宣男(国立天文台長)、肩書はすべて当時)。

アルマ第一号アンテナは日本製12mアンテナ
日本のアルマプロジェクトにとって非常に印象深かった出来事は、2008年12月に日本製アンテナが合同アルマ観測所に引き渡され、記念すべきアルマ第一号アンテナになったことです。アルマのアンテナは標高5000mの高地で、強風や移り変わる気温など様々な過酷な状態に耐えなければならないので、その性能や必要条件を満たしているか、標高2900mの山麓施設(OSF)にて様々な試験が行われます。高地の厳しい環境条件下でこれらの性能を実証して、初めて合同アルマ観測所への引き渡しになります。

この時はアンテナの移動実験も行われました。日本が製作した12mアンテナのうちの1台をトランスポーターと呼ばれる専用移動台車に搭載し、OSF内を移動させます。アンテナを載せた移動台車は、OSF内の国立天文台エリアを出発し入口ゲート前の急なカーブを曲がり、最大傾斜10%の坂道を最大時速5kmで登ることに成功しました。移動台車は幅10m、長さ18mの巨体なのですが、独立ステアリング可能な14組28輪の車輪を駆使して、小回りな動きを実現できます。日本製12mアンテナは重さ約100トンの超精密機械であり、アンテナの性能に悪影響を与えないように運搬するためには、輸送中のどの段階でも、アンテナに過大な力がかからないようにしなければなりません。当時の実験では、アンテナとトランスポーターの結合、アンテナの持ち上げ、平地走行、坂道走行、アンテナの設置のすべての段階を、細心の注意を払って検査できました。

日本が製造したアンテナがALMA第1号機アンテナとなる署名式。

日本製12mアンテナをアルマ望遠鏡の運営母体となる合同アルマ観測所への引き渡しをするために、数多くの評価試験とともに、数多くの審査会も行いました。電話で5回、OSF現地の検査を数回、6月と12月にチリ・サンティアゴで2日ずつface-to-face審査会を行い、最後の12月のface-to-face審査会にて合格を得ました。この結果は、アンテナチームのみならず、受信機チームや計算機チームそしてシステム・サイエンスチームの多大な協力があったことは言うまでもなく、さらに安全・品質管理・物流チームの支援に、数千ページにも及ぶドキュメントの英訳に全力を注いだ翻訳チームの貢献も忘れてはいけません。私は、オール ALMA推進室で取り組んだことが、このような成果に結びついたのだと思っております。

最後に
建設終了の成功に向けてラストスパートがはじまりました。ALMA推進室メンバー全員の力を結集し、この最後の大仕事をまとめ上げる必要があります。いろいろ理屈を言っても、結局のところ、一丸になって立ち向かうことが何より成功の秘訣だと思います。

※ 人物の所属や肩書き、組織の名称等は、執筆当時のものです。