アルマ人 新しい宇宙の姿を求めて

「諦めなくてよかった」と
つくづく思います。

石黒 正人 ISHIGURO Masato
国立天文台名誉教授。電波干渉計の世界的権威。ALMA計画の生みの親の一人で、日本側リーダーとして長きにわたって活躍。
アルマ・インタビューのトップは石黒正人さんです。"電波干渉計の神様"と尊称される石黒さんは、アルマ計画を実現させた最大の功労者。リチャード・ヒルズさん(アルマ望遠鏡プロジェクト・サイエンティスト)とは同年齢で、古くからの盟友です。

Q1 アルマ建設の経緯について教えてください。

アルマ望遠鏡計画のルーツは、1982年に試験観測を始めた野辺山宇宙電波観測所のミリ波干渉計ですね。この10mアンテナ5台の干渉計の建設は、45m望遠鏡と並んで、たいへんチャレンジングなものでした。なにしろ、本格的な開口合成タイプの干渉計を作るのは日本では初めてで、しかも未開拓のミリ波帯を世界最高レベルの性能で狙おうというものでしたから。当時、国外の研究者から「いきなり、こんな野心的な装置をよく作るね」といわれたものです(笑)。

野辺山のミリ波干渉計はたいへんうまくいって、原始惑星系円盤や原始銀河などの観測で大きな成果を上げることができました。しかし、各アンテナの配列変更に大変時間がかかるので、これが観測性能向上の大きなブレーキになっていました。当時、欧米勢もそれぞれ6素子くらいで同じような悩みを抱えていたのです。そこで、もっとアンテナの数を増やして感度と観測効率を上げられる次世代の干渉計を作ろうという構想を立てて、たとえば野辺山に30素子はどうか、とかさまざまな案を検討したんですね。ただ、構想が実現するとしても「すばる望遠鏡」の建設の後になるので、その間の世界の電波天文学の発展を見込むと、ミリ波にとどまっていたのては、陳腐化する恐れも否めない。そこで、思い切ってさらに短波長のサブミリ波帯を狙うことにしたのです。

Q2 サブミリ波帯の特徴について教えてください。

サブミリ波帯なら、天体から放射される電波がより強くなり、おまけに分解能も向上します。0.01秒角くらいまで観測できて、これはすばる望遠鏡の10倍ほど"視力がいい"ということになります。これで、原始惑星系円盤の観測、とくに生まれたての惑星を見るためには有利になります。

ところが、サブミリ波は大気(水蒸気)による吸収が大きいので、標高4000m以上の乾燥した高地に干渉計を作ることが求められます。さらに、数多くのアンテナを長い距離で、たとえば10km以上の間隔をとって配列できるような、広くて平坦な土地であることも必要です。そうなると、日本国内に適地はなく、世界で候補地を探すことになりました。

当初は、ハワイ・マウナケア山、中国奥地の砂漠高地、チリ北部を適地としてピックアップしました。その後、現地へ調査に出向いて詳しく検討すると、マウナケア山は、アクセスはいいし、すばる望遠鏡ともインフラを共有できて効率的ですが、山頂は狭く、大型の干渉計を設置しようと思うと高度が低くなってしまうので除外となりました。中国奥地には高地で広大な砂漠地帯があり、アジアの国々、とくに中国と協力できればいいなという思いもありましたが、なにしろアクセス面のハンデが大きすぎて、これも脱落。ということで、もともと第一候補でもあったチリ北部に狙いを定めました。日本からは一番遠い場所なので、それは欠点でしたが、時間はかかるものの、アクセスは問題なく、総合的に考えてここがベスト、という判断でした。

Q3 チリのサイト探しについて教えてください。

1992年から本格的なサイト(建設地)探しを始めて、最初はチリ北部で20か所くらいを候補としました。スペアタイヤとガソリンの予備タンクをたくさん積み込んで、四駆の自動車を運転して、有力候補地をしらみつぶしに調査しました。苦労話は数知れずですね(笑)。そこで、最終的に2か所まで絞り込んだのが、現在のアルマサイトと南のリオ・フリオという候補地です。より詳細な観測条件を調べようと、気象データだけでなく、大気による電波の吸収とゆらぎを測るための無人測定器を開発して現地に置き、観測環境のモニタリングをしました。ゆらぎの測定器は、2mのアンテナ2台を300m間隔で配置したミニ干渉計で、インテルサットの電波を利用して大気の振る舞いを調べました。そのデータなども参考にして、最終的に、標高5000mの現在のアルマサイトに建設場所を決めたのです。

20年近く前に四駆で走り回って作った、現AOSの調査マップを広げて。

当初米国内にサイトを探していた米国勢(NRAO:米国国立電波天文台)も関心を示し、途中から日本と協力体制をとるようになり、ほぼ同じ場所に日米で別々の大型干渉計を作り、完成後それらを結合させて、より高性能な干渉計として機能させようという構想をお互いに共有していました。その後、やはり南半球で大型の干渉計を作ろうとしていた欧州勢(ESO:ヨーロッパ南天天文台)が加わって、まあ、その間いろいろといきさつはあったのですが(苦笑)、最終的に日米欧とチリが協力してアルマ望遠鏡を建設することになったというわけです。

初期構想から30年、サイト調査をスタートさせてから20年。振り返れば、40年前に愛知県豊川の太陽電波干渉計から研究生活をスタートさせた私にとって、野辺山のミリ波干渉計を経て、"お椀を並べ続けて"ここまで来たという感じですね。お椀の品質もその数も、そして並べ方の工夫もどんどん進歩して難しくもなって、途中でくじけそうになったこともありましたが、今、こうして標高5000mのアタカマの大地の上に、美しく精緻なお椀がたくさん並んでいる光景を見ると、「ああ、諦めなくてよかった」とつくづく思います。

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